『建て、建つんだ、城』 第五回 上田城
さてさて、ご無沙汰でございます。
すっかり、お忘れになった方もいらっしゃるかもしれませんが、
真田十勇士のお時間ですぞ!!
今回は前回の続き、運命の徳川第二戦のお噺です。
【第二次上田城合戦】
痛い目をみた家康も、ついに天下統一のきっかけを掴みます。
秀吉の死亡からすぐの1600年、反徳川勢力を代表して石田三成が西軍を率いて挙兵。そのころ上杉討伐に出ていた家康は下野国(栃木県のあたり)で挙兵をしり、引き返して迎え撃とうとします。
このとき、徳川家は二手に分かれます。家康率いる本隊は東海道で、息子・秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで、それぞれ西に向かったのです。
中山道の先には上田市があり、そこでは石田三成方についている真田昌幸が、足止めをすべく待ち受けていました。
真田昌幸vs徳川家。
親子に二代に渡って、この昌幸に苦しめられることになります。
今回も昌幸の軍勢は全部で2000人と、絶望的なまでに少ないのですが、3万8000人を率いる秀忠は大苦戦をします。
伏兵戦術や篭城戦術など相変わらずの智将ぶりを思う存分に発揮する真田昌幸に対し、常に裏を書かれてしまう秀忠。
はやく関が原に行かなければならないのに、ズルズルと足止めを食らってしまいます。
秀吉から「表裏比興」と称された謀将・真田昌幸の、本領発揮とはまさにこのこと。
はやる徳川軍を徹底的に愚弄し、いきり立って押し寄せるところを伏兵、埋兵が襲う。浮き足立ったところに城門を開け放ち討って出る・・・・。
ここはもう、戦国好きとしては最高のシーンですね。
たった2000人で、3万8000人の軍隊を蹴散らす。
あたくし、これを知った高校時代、スラムダンクの山王戦以来の、書物によるアドレナリンを感じた記憶が今でも鮮明ですよ、はい。
結局、秀忠はある程度の兵を上田城に釘付けにしたまま、西に向かうのですが、上田での手惑いが影響して、
なんと一番大事なあの関が原の合戦に間に合わないという大失態に陥れられます。
結局、上田城は落ちることなく、関が原で徳川家の勝利ということになり、
真田昌幸と息子信繁は和歌山は九度山に流罪となるのですが、
最後の最後まで徳川家を苦しめた真田家は伝説となり、歴史小説でもたびたび取り上げられております。
江戸時代には「真田三代記」という歴史小説が流行し、
池波正太郎先生や海音寺潮五郎先生の著作は、もはやいうまでもない傑作として今なお、広い年代の方々に読まれていますよね。
【上田城その後】
徳川の恨みを徹底的に買った上田城は、やはり徹底的に破壊され、いまある上田城は江戸時代に入ってから仙石氏が建てたものです。
実はこの現存する上田城、場所すらはっきりしていないらしく、もはや面影はありません。
難攻不落の要塞だったはずなんですが、そばに千曲川はありませんし、なんともはや、良く分からない。
天守閣ももはやないし、今はかろうじて櫓(やぐら)があるだけ。
この櫓だって、廃仏毀釈の影響下では、遊郭になっていたくらいの話で、本当に良く分からない。
でも、ま、そういったミステリアスさも、真田伝説に拍車をかけているのでしょうかね。
伝説の智将・策士・謀将、真田昌幸。
ふふふ。ギガントかっこいいですな〜。
先日、何気なくGyaOなどを見ておりますと、なんと!
真田のアニメがやっているではありませんか!
ちょうど、今回の第二戦の様子が描かれていて、生唾ものでございますよ。ふふふ。
それでは、お相手は、ジョニーでした〜。