ナントカと人(β)



徳川を二度破った男、真田昌幸の伝説


『建て、建つんだ、城』 第四回 上田城



お疲れ様です。ジョニーです。


さて、お送りしている『建て、建つんだ、城』ですが、今までは信州を中心にご紹介させていただいてきました。
実はそれ、あたくしがついこの前、信州に行ってきたという理由だけなんですけどね。
そしてあっけなく、あたくしの行ってきたお城は今回で尽きてしまうわけですが(;^ω^)



そんなわけで今回、信州編の最後にご紹介するのは信州では松本城と並んで人気のある代表的お城、



『上田城』です。

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皆様ご存知のとおり、戦国時代を治めたのは最終的には徳川家康さんでした。
ではこの戦国の狸親父、徳川家康は最強であったか、というと、そうでもない
家康が負けたことのある人間が、伝え聞くところによると少なくとも二人、いるようです。




一人は最強の騎馬隊を擁した、武田信玄



死ぬ間際の家康は、信玄に敗れた三方ヶ原の戦いを思い出して、「あんときゃホンキで死ぬかと思ったプクー」とかナントカいったそうな。
まぁ普通に考えて、あの合戦での徳川軍が1万1000だったのに対して、武田は2万5000。
どう考えたって不利には違いないとは思いますね( ・∀・)アヒャ





そしてもう一人、家康を破ったのが、今回ご紹介する上田城城主、



真田昌幸

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実は二代将軍秀忠も、この真田昌幸には敗北しておりまして、かなりの徳川キラーっぷりを存分に発揮されているわけです。



今回はその、二度も徳川家を破った真田昌幸の城、上田城を、戦という側面をフィーチャーしつつ、お送りしたいと思います。





【第一次上田城合戦】


天正10年(1582年)3月、織田信長の武田征伐により武田氏は滅亡します。
そしてその織田信長も、その年6月に本能寺の変で横死するわけですから、
じゃあ、この、武田家の領土はどうなるの?ってぇことになりますと、上杉・北条・徳川などの近隣勢力が分け合う形になりました。


さあそこで、元々信玄の部下だった真田家は大変です。
お館様に死なれたら、どうりゃいいの?と当時の真田昌幸氏、とりあえずもうその場しのぎの媚び諂いをかまします。
北条・上杉・徳川といった具合に、次々と主君を変え、まぁなんとかやり過ごそうとしたわけですな。


ところがどっこい、やっぱりすったもんだがあって、やっぱり家康に上田のお城を狙われてしまいます
まぁ信州の山深いところでは、どうしても拠点となる土地というのが絞られてしまいますから、上田を制しておけば信州への足がかりにはちょうど良い、という感じだったのかもしれません。



とにかく上田家康によって狙われたわけです



徳川家の出兵は7000
家臣の鳥居元忠を総大将に、大久保忠世、平岩親吉といった、マニアックではあるものの優秀な部下たちを派遣して上田を狙います。



これに対して真田はたった2000
その大半は普通の農民だったという説もあります。
どーかんがえても、不利な戦いでした。



ところがそこは智将・真田昌幸、地の利をフル活用した奇襲を繰り出します。


上田の城にわざと誘い込んで、袋たたきにしちゃったりとか、
逃げ惑う徳川軍に、退路を絶っておいてなぶり殺したりとか。


ひどい表現ですが、まさに地の利による奇襲
徳川軍は手も足もでません。


結果、わずか40人ほどの犠牲で徳川家を跳ね返します。
このとき、徳川方の犠牲者は3000人ともいわれ、家康にとっては歴史的大敗となります。



そして伝説の二回戦をご紹介するわけですが、長くなってまいりましたので、今回はこの辺で。
続きは次回をお楽しみに。

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